2003/12/31

協調性が目的だなんて・・・

人間の統制の歴史の中では、人と違ったことをする人間は和を乱す存在として攻撃されてきました。その攻撃は「真実」を乱す行為に対して行われたものではなく、「和」を乱すという行為に対するものでした。それが事実かどうかということは問題ではなく、人々の心に不穏な動きを起こさせないための情報操作が目的だったのです。中には、はげしい攻撃を受けながらも「それでも地球はまわる・・・」と主張し、新しい真実を見出した偉い人もいましたが、残念ながら当時は認められることはありませんでした。

人と同じ行動や服装をしないと"協調性"がないといわれる時代がありました。今もそうなのかもしれません。見た目をそろえることに意味を見出そうとする目的はなんでしょう。そうすることで協調性を養うことができるというのでしょうか。同じ行動・服装をすることが協調性の象徴だということなのでしょうか・・・。
その"協調性"は「さまざまな個性・価値観を持った人々が、何かひとつの目的を達成するために一致団結する」という意味での"協調性"とは違うように思います。もちろん社会生活のルールやモラルは守ることが前提です。しかし協調するのは何かをやり遂げるための「手段」であって「目的」ではないはずです。
人間関係だけに限ればそれが「目的」となるケースも考えられるでしょう。しかしそれは次へのステップに過ぎず、多くの場合、真の目的はその先にあるのです。そしてその「目的」を達成したとき初めてその「手段」としての"協調性"の大切さがわかるのだと思います。はじめに何のために協調するのかということを理解しないと、単なる価値観の押し付けにしか取れなくなってしまうのです。そのうえで大いに協調し、互いの得意分野を活かしていけばいいのです。

逆にそういうことに慣れてしまった場合の弊害の方が心配です。協調が「目的」になってしまった人々は、他人と同じことをすることで自分の存在を確認し、安心するようになってしまうでしょう。つまり目的を達成するために協調性を持って行動するわけではなく、ただ漠然と理由もわからず同じ行動をしてしまうのです。あるいは内心では何かが違うと思っているにもかかわらず、周囲と同調することで攻撃をかわすようになっていくでしょう。閉鎖的な「村社会」の典型です。
ある意味そのような集団の中で生きていくうえでは必要な知恵なのかもしれません。しかしそういう集団からは新しいものは何も生まれてこないのです。それだけでなく間違ったことも修正されることはないのです。まわりがこうやっているから、とか、今までこうやってきたから、ということが価値判断の基準にあり、自分はこう思うとか、こうしたら良くなる、ということの発想はできなくなってきます。そのような集団のなんと多いことか!

もっとやっかいなことは、そのような集団が社会生活のルールやモラルに反すること(つまり悪いこと)を行っている場合です。その集団では"悪いこと"が"協調性"をもって行われてしまうことになるのです。現在次々と表面化し世間をにぎわせている諸問題も、そういう「慣れ合い社会」の弊害といえるでしょう。その世界での善悪の判断基準は「やっていいこと、わるいこと」ではなく「みんながやっていることかどうか、また、いままでやってきたことかどうか」なのです。

協調性が「目的」となってしまった集団は、人間の活動する分野なら政治・経済・地域社会などに限らずどこでもありえます。規模も数人程度のグループから数万人を超えるものまでさまざまです。そのような集団では「目的」のチェック体制が不足しており、先導者が進むべき目的の設定を誤った場合には、もう修正がきかなくなります。極端な場合は戦争さえも起こりえるのです。だから集団では、その末端まで「目的」を共有することが大事であり、その目的が本当にみんなのためになっているのかを見極めるシステムをつくらなければいけないのです。

一度、自分が今どういう集団の中にいるか考えてみましょう。大抵は複数の集団に属することになるでしょう。協調が目的になっているようなら早く気付くべきです。抜け出すことが不可能な場合でも、自分自身の考え方を変えることはできるはずです。

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