2003/12/31

徒競走はやめるべきか?

少し前の話になりますが、小中学校の運動会では定番となっている「徒競走」を廃止しよう、という議論が話題になったことがあります。実際に徒競走をやめた学校もあると聞きます。

理由は何でしょう。

個体差をつけるのはいじめの原因になる、ということが大方の意見だったように感じます。当事者に聞いたわけではないので真意はわかりませんが、この論理だと、だれもが平等に同じレベルでできないことは、次々とやめなくてはいけないことになります。

では逆に廃止に反対の理由は何でしょう。

競争がいじめを生むわけではないという意見。そんなに過保護では社会の荒波の中で生き残れないという意見。不得意なことにも積極的に参加し、逆境に耐える力を育てよう、という感じでしょうか。

それぞれうなずける部分があるように思えますが、実はこの問題の本質は、「徒競走が良いか悪いか」、「徒競走をやるかやらないか」ではないように思います。



大きな目で見ると「テストの順位」も「運動会の徒競走」も、非常に狭い範囲の才能をピックアップしたものであることに気が付きます。徒競走というのは、運動の中の走るということ、その中でも短距離、とりわけ瞬発力を争うものです。テストの成績というのは、学校での授業の内容だけについての理解度を比べるものです。

もちろん学校の勉強を理解する能力は必要ですし、身体的能力も高いに越したことはありませんが、それがすべてではないはずです。



TVチャンピオンというテレビ番組があります。毎回、各分野のエキスパートがその技や知識を競い合い優勝者を決めるという内容です。
その分野は非常に広く、大工や模型、特殊メイクや料理の技術を競うものから、アニメやスナック菓子の知識や、都心のパン屋、ケーキ屋の情報などの、いわゆる~通(なになにつう)選手権と呼ばれるものまで、非常に幅広くかつ範囲を極端に絞って行われる競争です。
正直いって「なんの役に立つのか」というようなものもありますが、これで優勝すると、その分野ではとても有名になるようです。ポテトチップスの銘柄あての優勝者は、その後お菓子関係の雑誌で記事を連載することが仕事になったとも聞きます。

何が言いたいかというと、広い社会の中で生きていく為の手段は無数にあるということです。
そして、好きなことを極めるということは、まんべんなく平均的な技術や知識を身につけるよりも、その人にとって「人生の大事な支え」になる可能性があるということです。

「限られた範囲の競争は、子供の才能の芽をつぶす」ことになりかねません。子供にとってみれば、自分の中の隠れた能力や才能が、「学校」という生活の大部分を占める場所で、うまく発揮できない、発揮する機会がない、ということになってしまうからです。



徒競争の話に戻りますが、順位をつけるということは決して悪いことではありません。
なぜなら自分に何が向いているのか、ということを客観的に知ることができるからです。

いちばん問題なのは、「競争する分野が限られていること」なのです。
徒競走だけが一大イベントのように盛り上がる現状では、反対意見が出ても当然といえるかもしれません。ですから、それは走るという一つの能力にすぎない、ということを子供達が理解した上で、数多いイベントの中のひとつに位置付ければ良いのです。

そして、一人ひとりが何かの分野で優勝できる、という機会を平等に与えてあげることが重要だと思うのです。「個々の能力を平均化するのではなく、才能を発揮する場を平等につくる」 ということです。徒競走がなくなってしまったら、勉強はできなくても走るのだけは負けない、という人にとっては、自分の能力を発揮する場を一つ失うことになってしまうのです。



大人から見て一見つまらないこと、学校でやってもしょうがないと今までやらなかったことでも、そこから才能が広がる可能性があります。むしろその方が多いかもしれません。そんな分野を数多く試すことで自分の得意なこと、好きなことを一つでも見つけられれば、その人の人生を左右する転機になるかもしれません。そして、一人ひとりが得意な分野を持つことができれば、何かわからないことがあったとき、「これはあいつに聞けばわかる。」というように、持ちつ持たれつの関係ができ、お互いの個性を尊重しあうことができます。おそらく子供同士の間では、その関係を無意識のうちにつくっているはずです。少なくとも私の子供時代はそうでした。

ですから、大人たちがするべき議論は、単純に「学校で徒競走をやるかやらないか」ではなく、
「才能を発揮する場を平等につくる」ための議論だと思います。

がらんどうの家「子供部屋のつくりかた」

あなたには、これからどう暮らしたいか、ということがイメージできているでしょうか。
おそらく具体的にイメージできる人は少ないと思います。
そういう場合、何も決めない「がらんどうの家」も、ひとつの答えとなります。
いろいろ考えた結果が「がらんどう」である場合もあるのです。

一度つくれば、何十年にも渡りそこに存在することになる家は、いま現在のあなたの価値観を反映することはできても、10年、20年後のことは正直いってわかりません。あなたの価値観が変わらなくても、世代を超えて、それが引き継がれていくとは限りません。親子だって趣味や価値観、家族観が違うのです。子供は親のコピーではありません。世代が代わり、暮らし方も代わり、建築に対する道具としての要求事項も変化して当然なのです。

ただ、そんな変化する要求を見越して、それに対応できるようにしておこうとする「考え方そのもの」は、世代を超えて引き継がれていくでしょう。それが、「がらんどうの家」のコンセプトといえます。

がらんどうというと、開放的な間取りを思い浮かべます。
建築の物理的な機能であるシェルターとしての役割を満足するために、外部との境界である屋根・壁をつくれば、あとは内部に必要以上の境界は不要です。それがひとつの集まり(家族)をつくるのです。最低限の機能を満足し、そこでとりあえず生活をしてみるのです。洞穴に肩寄せ合って暖をとった「はじめ人間ぎゃーとるず」のように(古い・・・)。

そういうスペースを持てるだけでも幸せだと思います。
現状になれると人間はそのうち欲が出てくるから、個人のプライバシーを求めるようになるでしょう。自分だけのスペース、家族にも内緒の秘密を楽しむ空間が欲しくなります。子供がそういうことを言い出した時は、「造りたいなら自分でやってみろ!」といってあげましょう。自分でスペースを確保し、自分以外の人間との距離感を測り、人間関係を自分なりに制御させてみるのです。

家族という最小単位の中で、最低限の社会性を体験できるいい機会になることでしょう。もちろん、計画段階でアドバイスをしたり、実際に協力して作業することはかまわないし、大いにやるべきです。その境界をどんな素材で造るかも興味深いものです。カーテンやロールスクリーン程度でいいのか、移動できる家具になるのか、半透明の引戸なのか、スリット状の壁なのか、いろんな方法を用意し自由に考えさせてみましょう。大人が思いもよらない案が出るかもしれません。子供の可能性は無限です!

はじめから子供部屋などというものがあって、それを与えられるのと、どちらがよいでしょうか?

「世界がもし100人の村だったら」のすごいスケール感

Eメールにのって世界中に広がったこの話。ご存知の方もたくさんいるでしょう。朝日新聞の天声人語で紹介され、NHKでも「100人の地球村」というタイトルで番組が放映されました。自分のまわりにいる100人だと思って読んでみると、世界の今の状況をイメージすることができます。

作者不詳 訳 なかのひろみ
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もし、現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、
全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう。

その村には・・・
57人のアジア人
21人のヨーロッパ人
14人の南北アメリカ人
8人のアフリカ人がいます

52人が女性です
48人が男性です 

70人が有色人種で
30人が白人です。

70人がキリスト教以外の人で
30人がキリスト教

89人が異性愛者で
11人が同性愛者です。

6人が全世界の富の59%を所有し、その6人ともがアメリカ国籍です。

80人は標準以下の居住環境に住み
70人は文字が読めません
50人は栄養失調に苦しみ
1人が瀕死の状態にあり
1人はいま、生まれようとしています
1人は(そう、たった1人)は大学の教育を受け
そして 1人だけがコンピューターを所有しています。

もしこのように、縮小された全体図から私達の世界を見るなら、相手をあるがままに受け入れること、自分と違う人を理解すること、そして、そういう事実を知るための教育がいかに必要かは火をみるよりあきらかです。

また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。

もし、あなたが今朝、目が覚めた時、病気でなく健康だなと感じることができたなら・・あなたは今生き残ることのできないであろう100万人の人達より恵まれています。
もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や苦悩、あるいは飢えの悲痛を一度も体験したことがないのなら・・・あなたは世界の5億人の人達より恵まれています。

もしあなたがしつこく苦しめられることや、逮捕、拷問または死の恐怖を感じることなしに教会のミサに行くことができるなら・・・あなたは世界の30億人の人達より恵まれています。

もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上に屋根があり、寝る場所があるのなら・・・あなたは世界の75%の人達より裕福で恵まれています。

もし銀行に預金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら・・あなたはこの世界の中でもっとも裕福な上位8%のうちの一人です。

もしあなたの両親がともに健在で、そして二人がまだ一緒なら・・・それはとても稀なことです。

もしこのメッセージを読むことができるなら、あなたはこの瞬間二倍の祝福をうけるでしょう。なぜならあなたの事を思ってこれを伝えている誰かがいて,その上あなたはまったく文字の読めない世界中の20億の人々よりずっと恵まれているからです。

昔の人がこう言いました。
わが身から出るものはいずれ我が身に戻り来る、と。
お金に執着することなく、喜んで働きましょう。
かつて一度も傷ついたことがないかのごとく、人を愛しましょう。
誰もみていないかのごとく自由に踊りましょう。
誰も聞いていないかのごとくのびやかに歌いましょう。
あたかもここが地上の天国であるかのように生きていきましょう。
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この文章から感じとるものは人によってさまざまだと思います。
知識不足の私などは単純にこの数字に驚き、改めて世界の地域間の格差を感じました。

人によってはこの文章が豊かな国の目線で書かれていて、他人の不幸で自分の幸福を自覚していると、批判的なとらえ方の人もいるようです。内容について興味のある方はウェブ上を検索するといろんなサイトで取り上げているのでそちらをご覧ください。

私が興味を持ったのはむしろ、この文章がもつ「スケール変換の手法」です。
はじめに述べたように世界という小さいようで大きい(大きいようで小さい?)ものの現状を数字でイメージできるというところ、特に前半の部分が優れていると感じます。

何百万人、何億人といわれても、桁が大きすぎてピンとこないのですが、パーセンテージで表現すること、さらに身近な100人という数に置き換えることで日常生活のスケールに近づき格段に理解しやすくなっているのです。

この文章の元になったものも最初は1000人の村だったらしいのですが、100人になったことでよりシンプルになったといえるでしょう。その分、1人未満の数字(つまり1%未満)が表現しにくくなり、後半の生の数字の記述になっているのかもしれません。



大きすぎてそのままではとらえどころがないものを、「スケール変換することでイメージしやすくする」という手法は、模型や設計図面、パース・CGなど建築の世界ではまさに設計のプレゼンテーションそのものといえます。建築では当然のことながら実物大がもっともイメージしやすく、1/1の模型を作ることが完成した空間を確認するのに最適であるのは言うまでもありません。

スケールを縮めることはコスト的・時間的・物理的な制約から行っていることといえます。しかし全てがそうというわけではなく、むしろ小さくすることで見えてくるものもあるのです。
たとえば、敷地周辺の位置関係、敷地内の建物配置、建物内のゾーニングやプランニングなどは、原寸で計画することは全体を把握することが難しいため、かえってやりにくいでしょう。

設計図がすべて原寸だったら近くで見ても良くわかりません。持ち運びは大変だし、打合せするにしても部屋の中ではできなそうにありません。
逆のケースも当然あります。小さすぎてそのままでは良くわからないことを「スケール変換の手法」を用いれば理解しやすくなります。目に見えないような化学の組成から電子部品の設計図、生物の構造などいろいろあるでしょう。



こうして我々は意識的に、または無意識のうちにスケールを変換し、日常生活のさまざまな場面で役立てているのです。

すてることはむずかしい・・・

いらないモノがあると「これ、何かに使えないかな・・・」と、つい思ってしまいます。
ここでいういらないモノとは、日曜大工で余ったベニアのきれっぱし、宅配便を包んでいた梱包材、電源コードを留めていたビニール被覆の平べったい針金など、本来の目的を果たしお役御免となったモノ達です。

特に気にせずに処分すればよいのでしょうが、つい貧乏性がでるのか、たいがい悩んだ末に「これはとっておこう。」という結論になります。こんなものでも捨てられないのだから、当然家の中にはどんどんモノがたまっていきます。

「今すぐ使わなくても、いつかきっと使うときが来る!」 という祈りにも似た希望のもと、次々と用途不明のモノがたまっていくのです・・・。




しかし、たまにはそれらが役に立つときもあります。
日常生活の中の何気ない1コマで、ある目的を達成するために(といってもつまらないことだですが)、それらが必要となる場合がでてくるのです。

「そうだ、あれを使おう。」そこでうまくいった場合の何ともいえない充実感。
「やっぱりとっておいて正解だった。」

でも注意していないと我が家の最終処分係である"かみさん"に捨てられてしまいます。
「あら、いるんだったの?」・・・・・。そのようなつまらないモノ以外でも、最近はなるべくモノを増やさないように努力しています。



そもそもなぜモノが増えるのか?
私の普段の生活を考えてみると、モノが我家へやってくるパターンとしては2つのケースに分けられます。 「意識的に買う場合」 と 「予期せず手に入る場合」 です。

「意識的に買う場合」は、買う前に「これは我が家の生活に本当に必要か?」という目で見極めなければいけません。本当に必要でないモノはせっかく買ってもそのうちゴミになってしまいます。

いただき物や景品なんかで「予期せず手に入る場合」はなおさらです。
もらったときは少し得した気分になるのですが、本質的に必要としていなかった場合は、目新しさに慣れてくるにつれて、その存在価値が薄れ、最終的には不要となりその処理に困ってしまうことになるのです。
モノにとっては不運な結果といえるでしょう。

少なくとも「意識的に買う」という行為は、自分でコントロールできそうです。
新しいものやカッコいいものを見るとついつい欲しくなるものですが、買う前にもう一度考えてみましょう。「これがあれば便利」 という程度なのか、「これがないと生きていけない!」ほどのものなのか・・・。
「予期せず手に入る」ものでも、それを必要としないことがはっきりしているときは、場合によっては受け取らないという判断もあり得るのです。



しかし、すでに手元にあって使う可能性がまったくないモノは、いつまで持っていても結局はそのまま使わずに終わることが多いものです。

まだ使えるモノは、「リユース」(再使用)が理想的です。最近ではいろいろなモノが中古品として流通するようになっています。ある人にとって価値を失ったものでも、別の人にとって、あるいは見方をかえることで再び価値が生まれるというすばらしい仕組みだと思います。
壊れたものだって「リペア」(修理)することで使用可能となる場合もあります。ただ最近は修理費のほうが新品を買うより高くつく場合があり、そういう場合は困ってしまいます。なるべく修理して使うようにしよう!(反省をこめて・・・)
そのままで使えなくても「リサイクル」(再資源化)できるものもあります。ただ、再資源化できるからといって何でもリサイクルすれば全てが丸く納まるわけではありません。樹脂や金属を溶かすために消費されるエネルギーやその結果生ずる 「温暖化」 も無視できないからです。やはり完全に人生をまっとうした上で、モノたちにはリサイクルされてもらいたいものです。


リユース Re-use(再使用)、リペア Repair(修理)、リサイクル Recycle(再資源化)を「3R」というらしいです。モノを捨てる前にもう一度考えてみましょう。リペアの変わりにリデュース Reduce(ごみをへらす)という場合もあるようです。
そのまえに、本当に手に入れる必要があるのかどうか、もう一度考えてみよう。

理想的な家って?

理想的な家ってどんな家でしょうか。

自分の希望を即答できる人はかなりの研究家、あるいは希望をはっきり持った人といえるでしょう。大部分の人が思い浮かべるのは、北欧風の家や純和風の家、自然素材の家、というような漠然としたイメージだと思います。

確かにそういう分類方法もあります。しかしそれだけで本当にいいのでしょうか?

家を持つということは通常一生に一度の大きなイベントです。今後数十年に渡ってその建物のためにローンを払い続けていくことになる、大事な意思決定の場面です。本当に満足する家をつくるには、自分自身の人生観・価値観・家族観・哲学・趣味・嗜好をもう一度見つめ直す必要があるはずです。
自分が何をしたいのか、その家に何を求めるのか、多少の時間をかけてでも考える価値、というよりは必要があるのです。また、そのチャンスは計画段階、そう、今しかないのです。



自分達にとって理想的な家とは、自分たちが思い描く理想的な暮らしができる家のことをいいます。理想的な暮らしとは、その家族の価値観や生活形態にあった暮らし方ということです。少々大げさに聞こえるかもしれないが、難しいことではありません。

順を追って考えてみましょう。まず、今の生活でなんとなく感じている不満や、不便なところをピックアップしてみます。そこは最低限クリアしましょう。
そのうえで、自分達の趣味や興味のあること、やりたいことを思い浮かべ、整理してみてください。たくさん出てもかまいません。
それらに優先順位を付け本当に必要なものを選び出すのです。

しかし現実はそう簡単にはまとまらないはず・・・。
なぜなら、家族全員がまったく同じ価値観をもっていることなどありえないからです。
どこかで誰かの妥協が必要です。誰の意見が反映されるのか?奥さんはどこの家庭でも強いようですし・・・。でもお父さんも頑張ってください!
ケンカになる場合もあって当然です。それくらい気合を入れて考えてみましょう。

そして苦労して選び出したものをキーワードにするのです。キーワードを持った家(家族)は強いのです。なぜなら、目的が明確になるからです。それは家族全体に共通の目的です。
あとはキーワードを形にすればよいのです。ここは私たち設計者の得意とするところです。思いっきり設計者にぶつけてみてください。方針が決まればそのための建築的な仕掛けはいくらでもあるのです。

要はどう暮らしたいかということです。多様化するこの時代にあって、決まりきった間取りや外観だけではなく、あなたとその家族のライフスタイルを反映した家をつくるべきなのです。なんとなく、よく考えず、言われたままにできてしまった結果、後で後悔することだけは避けなければなりません。



日々の生活とは与えられるものではないのです。つまりどう暮らすかという「目的」があって、はじめてその「手段」である「家」というものの形が見えてきます。具体的な希望がある人もいるでしょうし、漠然とした夢を持つ人もいるでしょう。それがその人の価値観ですから、その価値観にあった家をつくればよいのです。
そんなこと考えたこともない、という人はこの機会に是非考えてほしいのです。家族会議でも開いてみましょう。

そんなことは無駄じゃない?と思う人は、メーカーのカタログで選んで 「買う」ことをお勧めします・・・ 。

家は「住むための道具」であり、いくつもの機能を備えています。技術的なことは置いておいて、最も重要なことは、その中で生活する"人間の位置関係"であるといえます。家というものが家族という人間のグループを収める道具である以上、家族同士の距離感をどうとるか、またどう制御するかということは避けて通れない最重要課題なのです。

そこには当然その家族の構成や価値観が反映されます。いい機会だから考えてみましょう。つまり、どういう家をつくるかということは、どういう人間関係をつくるかということなのです。もっといえば理想的な家とは、その家族にとって理想的な人間関係そのものであるといえます。その人間関係が象徴的に形となって現れたものが家という空間なのです。

そのくらい「家」と「人間関係(家族関係)」とは密接にかかわっているのです。だから家は商品のように買うものではなく、つくるものなのです。そしてそのプロセス(過程)にかかわることは、めったにできない貴重な体験として、1人ひとりの記憶にインプットされることでしょう。

理想的な家とは工事が終わって引渡されたときに「御対面」するものではないのです。設計段階から意見を交わしあい、いろんな可能性を探りながら考え方をしぼっていき、できれば工事に参加して自分の手を汚し、汗をかき、ものづくりの楽しさと完成させることの喜びを体験するべきなのです。

そうやってつくりあげた家で実際に生活する・・・。協力してつくりあげるというプロセスを体験することができれば、まさにそれが理想的な家、そして理想的な家づくりといえるのはないでしょうか。

協調性が目的だなんて・・・

人間の統制の歴史の中では、人と違ったことをする人間は和を乱す存在として攻撃されてきました。その攻撃は「真実」を乱す行為に対して行われたものではなく、「和」を乱すという行為に対するものでした。それが事実かどうかということは問題ではなく、人々の心に不穏な動きを起こさせないための情報操作が目的だったのです。中には、はげしい攻撃を受けながらも「それでも地球はまわる・・・」と主張し、新しい真実を見出した偉い人もいましたが、残念ながら当時は認められることはありませんでした。

人と同じ行動や服装をしないと"協調性"がないといわれる時代がありました。今もそうなのかもしれません。見た目をそろえることに意味を見出そうとする目的はなんでしょう。そうすることで協調性を養うことができるというのでしょうか。同じ行動・服装をすることが協調性の象徴だということなのでしょうか・・・。
その"協調性"は「さまざまな個性・価値観を持った人々が、何かひとつの目的を達成するために一致団結する」という意味での"協調性"とは違うように思います。もちろん社会生活のルールやモラルは守ることが前提です。しかし協調するのは何かをやり遂げるための「手段」であって「目的」ではないはずです。
人間関係だけに限ればそれが「目的」となるケースも考えられるでしょう。しかしそれは次へのステップに過ぎず、多くの場合、真の目的はその先にあるのです。そしてその「目的」を達成したとき初めてその「手段」としての"協調性"の大切さがわかるのだと思います。はじめに何のために協調するのかということを理解しないと、単なる価値観の押し付けにしか取れなくなってしまうのです。そのうえで大いに協調し、互いの得意分野を活かしていけばいいのです。

逆にそういうことに慣れてしまった場合の弊害の方が心配です。協調が「目的」になってしまった人々は、他人と同じことをすることで自分の存在を確認し、安心するようになってしまうでしょう。つまり目的を達成するために協調性を持って行動するわけではなく、ただ漠然と理由もわからず同じ行動をしてしまうのです。あるいは内心では何かが違うと思っているにもかかわらず、周囲と同調することで攻撃をかわすようになっていくでしょう。閉鎖的な「村社会」の典型です。
ある意味そのような集団の中で生きていくうえでは必要な知恵なのかもしれません。しかしそういう集団からは新しいものは何も生まれてこないのです。それだけでなく間違ったことも修正されることはないのです。まわりがこうやっているから、とか、今までこうやってきたから、ということが価値判断の基準にあり、自分はこう思うとか、こうしたら良くなる、ということの発想はできなくなってきます。そのような集団のなんと多いことか!

もっとやっかいなことは、そのような集団が社会生活のルールやモラルに反すること(つまり悪いこと)を行っている場合です。その集団では"悪いこと"が"協調性"をもって行われてしまうことになるのです。現在次々と表面化し世間をにぎわせている諸問題も、そういう「慣れ合い社会」の弊害といえるでしょう。その世界での善悪の判断基準は「やっていいこと、わるいこと」ではなく「みんながやっていることかどうか、また、いままでやってきたことかどうか」なのです。

協調性が「目的」となってしまった集団は、人間の活動する分野なら政治・経済・地域社会などに限らずどこでもありえます。規模も数人程度のグループから数万人を超えるものまでさまざまです。そのような集団では「目的」のチェック体制が不足しており、先導者が進むべき目的の設定を誤った場合には、もう修正がきかなくなります。極端な場合は戦争さえも起こりえるのです。だから集団では、その末端まで「目的」を共有することが大事であり、その目的が本当にみんなのためになっているのかを見極めるシステムをつくらなければいけないのです。

一度、自分が今どういう集団の中にいるか考えてみましょう。大抵は複数の集団に属することになるでしょう。協調が目的になっているようなら早く気付くべきです。抜け出すことが不可能な場合でも、自分自身の考え方を変えることはできるはずです。

目的と手段を知るべし

人が何かの「行動」をするとき、そこには必ず「目的」というものが存在します。一見、何の意味もない日常的な動作でも、そこに至るには無意識のうちに、必ず「目的」というものが生じているのです。



「テレビを見る」という行為を例にとってみましょう。

積極的に見ている人、例えばニュースやスポーツ、ドラマなどの見たい番組を見ている人は、言い換えれば「情報を入手する」という「目的」をもっています。
また、ただなんとなく見ている人にとっても「暇をつぶす」とか、「さみしさを紛らわす」というような感じで無意識のうちに何らかの「目的」をもっているのです。

もっと単純な動作、例えばデスクワークをしているとき、手を上に伸ばし「のび」をしたとしましょう。本人は無意識に行っていたとしても、そこには「身体の疲れをとり集中力を維持する」という「目的」 が存在しているのです。

そのような「目的」を達成するためには「手段」というものが存在します。これは上の例で言うところの「行為・行動」そのものです。つまり「暇をつぶす」とか「さみしさを紛らわす」あるいは「情報を入手する」という「目的」のためにあなたが選んだ「手段」が「テレビを見る」という行為だったのです。また、仕事中に「身体の疲れをとり集中力を維持する」という「目的」のために選んだ「手段」が「のび」という行為だったのです。




私は以前、ある予備校で建築士の資格を取得したい人達向けの設計製図の講義を担当していたことがあります。そこは建築士の試験に合格したいという「目的」を持った人が、そのための「手段」として選んだ場所といえます。

仕事をしながらの受験勉強は当然ハードなものとなり、目的を達成するためにはそれなりの犠牲を払わなければいけません。仲間と遊ぶ時間、デートの時間、また暑い夏には欠かせない一杯の生ビール・・・。面倒くさくなって勉強をサボりたくなる時もたくさんあるでしょう。(私もそうでした。)

でもそんな時にはもう一度思い出してみください。
「目的」は何なのか?
何のためにつらい思いをしているのか。
誰のためでもない自分のためなのです。

「試験に合格する」という「目的」の先には、「建築士としての知識を身につける」という、実はもっと大切で、なおかつ根本的な「目的」が存在しているのです。


あるいはこういえるかもしれません。試験に合格することはスキルアップのための「手段」であり、単なる動機付けであると。
試験に合格し、建築士の資格を手に入れて万事OKというわけではないのです。そのスキルを活かし自分の能力を十分に発揮して、プロフェッショナルとしてあなたを必要としている人に貢献することが大切です。




つまり一見「目的」と思っていた事柄(合格すること)は表面的な結果にすぎず、本当に大事なことはその裏に隠されているということです。
真の目的というものは目に見えない、あるいは気がつかない場合があるのです。
目的と手段の多層構造を見抜く目を持つことが大切です。

真の目的を知ることができれば、その時間をもっと中身の濃いものにすることができるのです。