2003/12/31

徒競走はやめるべきか?

少し前の話になりますが、小中学校の運動会では定番となっている「徒競走」を廃止しよう、という議論が話題になったことがあります。実際に徒競走をやめた学校もあると聞きます。

理由は何でしょう。

個体差をつけるのはいじめの原因になる、ということが大方の意見だったように感じます。当事者に聞いたわけではないので真意はわかりませんが、この論理だと、だれもが平等に同じレベルでできないことは、次々とやめなくてはいけないことになります。

では逆に廃止に反対の理由は何でしょう。

競争がいじめを生むわけではないという意見。そんなに過保護では社会の荒波の中で生き残れないという意見。不得意なことにも積極的に参加し、逆境に耐える力を育てよう、という感じでしょうか。

それぞれうなずける部分があるように思えますが、実はこの問題の本質は、「徒競走が良いか悪いか」、「徒競走をやるかやらないか」ではないように思います。



大きな目で見ると「テストの順位」も「運動会の徒競走」も、非常に狭い範囲の才能をピックアップしたものであることに気が付きます。徒競走というのは、運動の中の走るということ、その中でも短距離、とりわけ瞬発力を争うものです。テストの成績というのは、学校での授業の内容だけについての理解度を比べるものです。

もちろん学校の勉強を理解する能力は必要ですし、身体的能力も高いに越したことはありませんが、それがすべてではないはずです。



TVチャンピオンというテレビ番組があります。毎回、各分野のエキスパートがその技や知識を競い合い優勝者を決めるという内容です。
その分野は非常に広く、大工や模型、特殊メイクや料理の技術を競うものから、アニメやスナック菓子の知識や、都心のパン屋、ケーキ屋の情報などの、いわゆる~通(なになにつう)選手権と呼ばれるものまで、非常に幅広くかつ範囲を極端に絞って行われる競争です。
正直いって「なんの役に立つのか」というようなものもありますが、これで優勝すると、その分野ではとても有名になるようです。ポテトチップスの銘柄あての優勝者は、その後お菓子関係の雑誌で記事を連載することが仕事になったとも聞きます。

何が言いたいかというと、広い社会の中で生きていく為の手段は無数にあるということです。
そして、好きなことを極めるということは、まんべんなく平均的な技術や知識を身につけるよりも、その人にとって「人生の大事な支え」になる可能性があるということです。

「限られた範囲の競争は、子供の才能の芽をつぶす」ことになりかねません。子供にとってみれば、自分の中の隠れた能力や才能が、「学校」という生活の大部分を占める場所で、うまく発揮できない、発揮する機会がない、ということになってしまうからです。



徒競争の話に戻りますが、順位をつけるということは決して悪いことではありません。
なぜなら自分に何が向いているのか、ということを客観的に知ることができるからです。

いちばん問題なのは、「競争する分野が限られていること」なのです。
徒競走だけが一大イベントのように盛り上がる現状では、反対意見が出ても当然といえるかもしれません。ですから、それは走るという一つの能力にすぎない、ということを子供達が理解した上で、数多いイベントの中のひとつに位置付ければ良いのです。

そして、一人ひとりが何かの分野で優勝できる、という機会を平等に与えてあげることが重要だと思うのです。「個々の能力を平均化するのではなく、才能を発揮する場を平等につくる」 ということです。徒競走がなくなってしまったら、勉強はできなくても走るのだけは負けない、という人にとっては、自分の能力を発揮する場を一つ失うことになってしまうのです。



大人から見て一見つまらないこと、学校でやってもしょうがないと今までやらなかったことでも、そこから才能が広がる可能性があります。むしろその方が多いかもしれません。そんな分野を数多く試すことで自分の得意なこと、好きなことを一つでも見つけられれば、その人の人生を左右する転機になるかもしれません。そして、一人ひとりが得意な分野を持つことができれば、何かわからないことがあったとき、「これはあいつに聞けばわかる。」というように、持ちつ持たれつの関係ができ、お互いの個性を尊重しあうことができます。おそらく子供同士の間では、その関係を無意識のうちにつくっているはずです。少なくとも私の子供時代はそうでした。

ですから、大人たちがするべき議論は、単純に「学校で徒競走をやるかやらないか」ではなく、
「才能を発揮する場を平等につくる」ための議論だと思います。

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